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もっと普通を愛したくなる〜『泥棒役者』感想〜

こんにちは。昨日、3回目の『泥棒役者』を見て参りました、みはるです。

同じ映画を劇場で3回なんて人生初…。5年前の私に言ったら、きっと「はあ?何やってんの?」ってあきれられてしまうはず。

もちろん、回数がどうのという話じゃなくて、あくまで過去の自分と照らし合わせた、当社比の感想ですよ。私のエイトごとにおける最近のテーマは「身の丈」でございますよ。(いきなり叶姉妹風)

そして3回目は、もし最後になってもいいように、あえて力を抜いてゆるりと見てきました。もちろん隙あらばコソッとまた行きますけどね。コソ泥。

客席のようす

1回目と2回目は2日しか間を置かないで見たのですが、今回はそこからまるっと2週間空きました。その間に小説版も読んでからの、3回目。

間を空けて見るのは、また新鮮でよかったです。

そしてわかったのは、この作品は筋がわかっていてもおもしろい、ということ。

次にああなる、ここでこうくる、とわかっていても、それでも笑ってしまうところがいくつも。

きっと、台詞と間の感覚が絶妙なんでしょうね。そのコメディとしての完成度にまず驚きました。

平日午前ということで、客席には40代以上の男女合わせて10人弱。ご夫婦らしき方も2組。

これがまたみんなよく笑うんです。2回目よりも笑いが大きかった。終わってから、私と同じ列だった妙齢の女性は、

「笑っちゃったわ〜」

とうれしそうにお連れの方に話してました。なんか私まで嬉しかった。

丸ちゃんの顔面力と演技

実は、1回目と2回目を見終わったとき、正直なところ、丸ちゃんに関する感想があまり出てこなかったんです。

最初、丸ちゃんが薄汚れた姿でスクリーンに現れたときは、さすがになんとも言えない感動がありました。ついに、とこみ上げるものが。

でも2回目までは、丸ちゃんの演技自体に特別な思いは持ちませんでした。いつもの丸ちゃんの一部分を引き出して大伸ばしにしたような印象で。違和感もなければ、特別感もない、という感じ。

1回目はとにかく市村さんのインパクトに持っていかれたし、2回目はなぜか則男に感情移入し。

あとは舞台装置や小物、音楽に興味を持って見ていました。

だけど、この3回目に気づいたのは。

丸ちゃんの顔面の美しさ。

はいはい、戯れ言と笑うなかれ(笑)。

だって本当にきれいだったんですもの。

この映画、けっこう丸ちゃんのアップが多いんですよね。主演だから当然といえば当然だけど。

則男センパイ、前園先生と、次々と予想外の人物に出くわし、そのとき必ずはじめくんの顔が大写しになる。

その顔がいちいちきれい。

スクリーンの大画面に耐えうる美しさ。

まあ3回目なので、無意識にそれまで見た分も脳内に蓄積された結果かもしれませんが。

頭は例のモジャだし、服装は例のLOS ANGELSトレーナーだし、ごくごく地味な青年という印象を与えるのに大成功しているんですが、それを補ってあまりある整った顔。

うん、そりゃジャニーズだし、アイドルだし。いわゆる自担ってやつだし。

でも今思えば、あの美しさは、単純な顔の作りの話だけじゃなく、そこににじみ出ている「大貫はじめ」の心の純粋さだった気がしています。

特にあの目。

白目のくっきりした、あの目が、まっすぐに相手を見続ける。驚いたり、とまどったり、喜んだり、微笑んだり、さまざまな感情をにじませながら。

その繰り返しが、最後のピュアで一途な終わり方に、説得力を持たせてると思うんです。

横顔もよかったな〜。最後に則男に脅されて金庫を開けようとするところ。覚悟を決めた、真剣な表情がとてもよかった。

それから、前園先生に、「きみと、また」と声をかけられたあとの、ふりむかないけれども胸いっぱいの思いを感じさせる晴れやかな表情。

演技を感じさせず、「大貫はじめ」という人物を、ごくごく自然に「存在」させた。

それこそが、役者丸山隆平のいちばんの演技だったんだと今は思っています。

丸ちゃんにとっても、「大貫はじめ」はきっと特別な存在になってるんだろうな。

夢と現実ではなく

ところで今朝方、前に自分で『泥棒役者』について書いた感想をひとつ削除しました。

則男という悪役に注目して、夢と現実の対比として物語を考えた記事です。

あのときはあのときで一生懸命考えて書いたんですけど、もう一度作品を見たら、なんか、だいぶ違ってた(笑)。

笑い事じゃないですね、反省してます。ごめんなさい。

もう一度映画を見てみたら、小説と映画で違っていたところもほんの少しあったように思うし。

その記事で私は、ふわふわした夢を見ている状態から、現実に真正面から立ち向かうようになる物語、と感想を書いていたんですが、訂正します。

今は、受け入れる物語、だと思っています。受容の物語

間違いに気づかせてくれたのは、轟良介と高梨仁です。

売れない原因は話を最後まで聞かないから、と諭されている最中に扉をしめて出て行ってしまう轟良介。そして、最後でも油絵を書きながら同じ歌を歌い、微妙に再生数を伸ばしただけの高梨仁。

それを私は前回、特に小説を読んだあとに、残念ながら響いてない、救いがない、と感じたのですが、今回映画から得た印象は違いました。

轟が話を聞かずに帰ったとき、はじめたちは、

「またやるな、あの人」
「多分ね」
「いや、絶対やるでしょ」

と笑い合います。それはけして轟を貶めるものでも、揶揄するものでもなくて、そんな欠点までまるごと受け入れているのが伝わってくる、あたたかな笑いなのです。

高梨仁だって、きっとそう。動画を見た則男は、映画では特別なコメントをしないし、小説では「微妙やんけ…」とつぶやくだけなのですが、それまでの流れから、私が感じたのは、さっきのはじめたちと同じでした。

変わってないなぁ、変わらないんだろうなぁ(笑)。

ふふっと苦笑する感じ。ばかだなあってあたたかく見守っちゃう感じ。

それはわかりやすい救いの形ではないけれど、残念な部分もあたたかく見られる、そんな気持ちをいつのまにかもらっていた気がします。

はじめの生き方

実際、人が一夜で大きく変わるようなことは、そうそうないんですよね。

人間、そう簡単には変われない。

これが、この作品の持つリアリティなのかな、と思います。

でもそれだけじゃない。

人は簡単に変われないからこそ、切なくもいとおしい。

そんな人間愛と。

それでも、少しずつ変われる「何か」はきっとある。

そんな希望。

その現実と愛と希望が、ひとつの形になっているのが、やはり「大貫はじめ」だと思うのです。

はじめは、基本的に流され系主人公です。状況に流され流されしてストーリーが進んでいく。

でもそれは、はじめが逃げないからなんです。予想もしてない状況に置かれても、とにかくそれを引き受けてなんとかしようとする。

「そうです〜」

と仕方なさそうな笑顔を浮かべながらも、はじめは投げ出さない。

罪を犯した過去、さえない風体、情けない表情、全部がはじめという人間を生々しく語っていて、それでいて、みんなの気持ちをあたたかくしてくれるんです。

最後、太陽のマスコットの隣に、きょとんとしたはじめの顔が並んだとき、じわっときました。

その、ありのままの愛らしいあなたが、まわりをあたためて、そして輝かせてくれるんだと感じて。

そんな台詞は一言もありません。でも言葉じゃないところで、ストーリーと映像でそれを感じさせてくれた。それがこの映画のいちばん素敵なところかもしれません。

うん、最終的には人間愛だなあ、この映画。

この映画を見た後に、映画館を気持ちよく出られるのは、はじめのキャラクターから、おおらかな、あたたかい気持ちをもらっているからだと思います。

多少のことは許せちゃうくらいに。

許す気持ち、受け止める気持ちって、今この時代にとても大切なことなんじゃないかと思います。

前園先生が言った、「生きていれば誰にでもある、大きな後悔」。

100%後悔や失敗のない人生なんてどこにもないでしょう。

でもそれを受け止めて、歩き出す勇気。

はじめが、美沙に過去の罪を告白したように。

美沙が、はじめの告白を受け止めたように。

ありのままの自分自身を、そして周りの人も受け止める勇気。

受け止めることは、愛すること。

そんなメッセージが、説明じゃなく、ストーリーこら、キャラクターからちゃんと伝わってきました。

ありのままの、普通の生活を愛したくなる映画です。

ああ、やっぱりもうちょっとコソ泥したくなってきた(笑)。

できたらまた報告します。

いい映画をありがとうございました。

では!